そうか。。
↓の記事を書いてみて、いかに今の人間がものを考えなくなったか、
「難しいことはもういいじゃん」で、議論を煮詰めることなく、
安易に済ますようになったか、
なんとなく思い出した。。
もう10年以上前に買った本を読み返したけど、
みんな割と複雑なことを考えてましたね。
今はネットの影響で、少しでも長い話をすれば「うざっ」と言われ、
少しでも長い文章を書くと「目が滑る」などと言われるけど、
本来はそんなことを言っているほうがバカだと思われていたのに、
今ではそれが完全に正義になってしまっている。
これについてはお笑いブームの影響もあるでしょうね。
芸人は少しでも話が長いと突っ込みますから。
まあ今は、「コミュ力」が重視されるだとか、面倒な時代でもあるし、
あんまりそういう場とは関わらないでいたほうが無難でしょうね。
物事って、「白黒はっきりつけられない」ということが意外に多くて、
実はそれによって支えられていたり、左右されていることもあって、
それを全て白日の下に晒して、
何でも白黒つけようとすると壊れるものがけっこうあると思う。
「遊び」の部分があるからやっていける、みたいな感じかな。
とりたてて言葉にもせず問題にもしないし、そんなに意識もしないけど、
なにげなくやっているその行為が、なくなると実はバランスを崩すみたいな。
結局、はっきり説明のつかないようなことでバランス取ってるのが人間なんじゃないかと。
アナログな存在だから。
そういう微妙なものを理解する感性はネットにはないし、
ほぼ悪意に満ちているので、積極的に関わらないのが肝要。
まさに「言葉では表せない」ことの中に真実があったりするもんだけど、
ネットは言葉以外に頼れるものがほとんどないので、
当然のことながら真実はほとんどない。
なんかコミュ力とか言うけどさ、昔は人と理解し合うのとか本当に難しかったし、
時間がかかるものだと普通に思われていた。
コミュ力とか言ってる人たちは、すぐに打ち解けないとだめなんだろうけど。
もともと、人と関わるのにはエネルギーも気合いも必要で、
コミュ力だとかそんなものでさっさと人を判断とかしなかった気がする。
いなかにいると、「まず人ありき」という感じじゃないんですよ。
人間の絶対数が少ないから。
それは案外楽でもあって。
だからこそ、口下手だとかシャイな人でも、そんなに排除されずに生きられるわけで、
割と内にこもって日々過ごしている人も多い。
それでも割とやり過ごせるから。
都会にいるほうが会話は強要されるよね。
軽薄な人間が多いし、どこ行っても人がいないということがありえないし。
だからまあ、細かい話になるといなかでは「何それ?」という感じになって通用しないし、
物事をきちきちしたい人にとってはきつい場所。
ただ、病的なまでにコミュ力がどうのと言う最近の社会を見ると、
それはやはり東京の病理だといわざるを得ないな。。
いなかでは別に、口数少なくても責められないから、しゃべるのが下手な人間が多い。
あれをいちいちコミュ障とか言っていたらどうしようもない。
あまりに世間ずれして、腹芸みたいになるのもどうかとは思うけど、
ネットに侵された今の社会は、素朴にも程があるということかもしれない。
表面的な事象のみですぐ噴きあがる、みんなで叩くみたいな社会になってしまった。
そうした幼稚な振る舞いの陰で、見過ごされていることとかいっぱいあるんだろうね。
「口には出さないけど暗黙のうちに持っている共通認識」って、
いったいいつから衰退したんだろう。。
やっぱネットがよくなかったのかな。。